現代のサムライたちの時空間へ

サムライ伝Vol.9 前編 イタリア料理人 小池 教之氏

第9回目のサムライ伝には、Vol.2の池田 匡克氏にご紹介いただいた、イタリア料理人 小池 教之氏です。2018年2月26日には、小池氏自身のお店「Osteria dello Scudo(オステリア デッロ スクード)」を開店されたばかり。今回が初対面ではなく、3年前から始まった、チャリティイベントに共に参加したのが最初の出会い。退職から独立開店までの半年間には、小池氏曰く、45年間の人生の中で、最も過酷で苦しかったという、激動のドラマがありました。料理人としての熱量も半端なく、9人目のサムライ伝は、思い悩んだ末、異例の前編、後編に、分けての投稿となりました。まずは前編の、過酷な半年間をお送りします。

 

サムライのルーツ

 

1972年埼玉県生まれ。やんちゃで職人気質だった少年が、料理に目覚めたのは、中学のときに母親が入院した際の、家庭内料理担当。その後、イタリアの文化や歴史に魅了され、イタリア料理人になることを決意、大学に籍を置きながら、麻布十番の「LA COMETA(ラ・コメータ)」に修行、その後、広尾「PARTENOPE(パルテノペ)」など数店で、イタリアの伝統料理に造詣の深いシェフたちに師事。03 に渡伊。イタリアでは全20州を行脚、計7軒のレストランや肉屋などで研鑽を積み帰国、07 より広尾「incanto(インカント)」の立ち上げからシェフに就任。 10年にわたってイタリア全土の伝統的な郷土料理を紹介。 伝統料理の保存を掲げた「Federcuochi club Giappone(フェデルクオーキ クラブ ジャポーネ)」の副会長、2018年2月、四ツ谷にて自身の店、「Osteria dello Scudo (オステリア デッロ スクード)」を開店。

 

サムライのいま

 

立ち上げからずっとシェフをされていた広尾のインカント時代には、料理専門誌などさまざまなメディアでは10年間で約150回を超える数の取材を受け掲載され、書籍も共署にて20冊近くを出版、その伝統に即したイタリア郷土料理に、イタリア全州の料理を1度に網羅した形で出すという、小池氏しかできないであろう伝説のディナーなど、たくさんの業界関係者や顧客が、魅了されていました。「小池さんの料理をはじめて食べたときに、突き抜けました」などと表現されるお客様もいて、私もその1人です。

インカント時代の”厨房通信”では、各地方、各伝統料理などの背景や説明が深く楽しく掘り下げられて掲載されています。小池氏の投稿は、決まり文句の「厨房通信です」で始まるシリーズです。

incant(インカント) 厨房通信

ちょうど丸10年間、立ち上げからシェフを勤められた広尾のイタリアン「広尾 incanto(インカント)」を独立のために、2017年9月9日に退職されました。

そして、今回は新しく四ツ谷にできたお店へ何度かお邪魔して、お話を伺いました。

 

サムライの 最も過酷な半年間

 

女「毎年11月に共に参加させていただいているチャリティはどのようにして始まったのですか?」

 

侍「イタリア修行時代には、アマトリーチェから山ひとつ向こうの地域、ラツィオ州境のウンブリアにいて、文化圏も共有、隣町です。日本の震災などにも日本人として心を痛めないわけではないのですが、アマトリーチェには自分のルーツがありますので、やはり放っておけない。震災があってすぐ、ローマから電話があり、助けて、日本で何かできないかって。「やるに決まってるじゃないですか」。その直後に、フィレンツェの池田さんや愛媛の青江シェフからも電話があり、「やろうよ」と。「やりますよ!もうやる準備できてますよ!」。自分がイタリア料理業界で生かしてもらっていて、イタリアで震災がおきて、神のお告げのように、自分のところに依頼がきた。これは”使命”だと思いました。」

 

女「2017年は、退職後の独立準備期間でしたが、両立されていたのですか?」

 

侍「インカントを9月で退職する事は前から決めていました。年末まで籍を置いていたほうが、いろいろな活動がしやすかったと思いますが、このタイミングでお店は開けられなかった。ボランティアのメンバーはそれぞれ仕事をしていますので、その分、縁の下で動ける人間が必要ですから、物件を探しながらもフリーでいなければと思っていました。とにかくアマトリチャーナデイが終わるまでは、収入がゼロなのも、他の仕事とかできないのも、全て分かっていましたが、チャリティの準備に、数ヶ月没頭しました。家族には、ごめん、終わるまで待って、そのあとバイトするからって。おれがやらなきゃいけないんだよって。」

 

アマトリチャーナデイ

 

 

 

 

2016年8月24日。イタリア中部地方での地震で、風光明媚な観光地として知られ、夏には多くの避暑客でにぎわう”アマトリーチェ”は大きく被害を受けました。その震災支援として、アマトリーチェ発祥のパスタである、「アマトリチャーナ」を食べて、その売上金の一部を寄付するムーブメントが世界や日本各地のイタリアンレストランにも広がりましたが、震災後すぐに、東京でも「アマトリチャーナデイ」という名の震災支援イベントが立ち上がりました。

イタリア料理人を中心に、50人を超えるボランティアの方々が、都内はもちろん、遠くは愛媛や大阪、愛知からも参加。数ヶ月におよぶ長い準備時間を経て、11月の限定1日に、世田谷区千歳烏山 ”ななつの子” まで848名を動員、30人近いプロのシェフ達が、本国イタリア人も絶賛の、美味しい料理などを現地で作りあげ、たった10時間の間に、130万円を売り上げ、約100万円を義捐金とし、同年には、イタリア大使館公認行事としても認定されました。

アマトリチャーナデイ公式サイト

このチャリティイベントで、その日1日の、数時間だけ存在するスペシャル野外レストランで、ミシュランや食べログでも高い評価のスペシャルシェフ達の中心となっていたのが、小池 教之 料理班班長です。

 

終わるまでは、死にもの狂い

 

女「初回より規模が拡大し、ボランティアメンバーも大幅に増員しましたが、運営はいかがでしたか?」

 

侍「前年よりも規模を拡大、開催地も都心でと準備を進めていましたが、役所関係の許可なども難航、結局ダメになり、これまで準備してきた全てを、ゼロから組み直す必要に迫られるかもという、最も緊迫した時期に、うちの母親が倒れたんです。生死を分ける状況でした。」

 

「母親のことはごく一部の人にしか報告しませんでした。料理班は、今年は人数も増えて27人。毎日、お店の営業終了後の夜中12時ぐらいから始まり、遅いと朝方まで続くチャットでいろいろ決めるのですが、私は、参加するシェフたちの個性を、できるだけ活かしてあげたいと思っているので、人数も増えた分、ますますたいへんな状況になります。母親の入院も重なり、事がなかなか進まなくなり、責められながらでしたが、最後は、それぞれの意見を叶えることができたと思っています。自分にも店があれば、持ち込む料理の仕込みもできますが、退職してしまったのでその手配からです。最後は厨房を借りて徹夜で仕込みましたが、とにかくアマトリチャーナデイが終わるまでは、死にもの狂いでした。」

 

45年で、最も過酷で苦しい1ヶ月

 

女「チャリティイベント後はすぐに新店舗の準備に入られたのですか?」

 

侍「11月26日にアマトリチャーナ デイが終わってからも、資本力のない個人なのでなかなか物件も決まらず、心が折れそううでしたが、引き続き探していました。年の瀬も迫ってきて、不動産屋さんには、年内はもう出ませんね、と言われてしまい、長期戦を覚悟、春ぐらいまで待とうと腹を括り、いろいろと依頼されていた仕事も受けた矢先、年末に急に物件が出て、決まったんです。年開けてからは、多いときは週3日間とかセミナーなどをこなしながら、いろいろトラブル続きの新店舗の準備もすすめていましたが、こうなったらどうしても ”2月”に開店しなければと決意する、理由、ができたのです。」 

 

女「私も自分のお店を開店した経験があり、様々な準備に忙殺されましたが、他のお仕事もされながら、1~2ヶ月で開店とは、どんな状況だったのでしょうか?」

 

侍「倒れた日からずっと意識不明だった母が、2月7日に亡くなったんです。生前に風水とか方角を見るのが好きな母で、倒れる日の前日に、「あんたの年回りだと、”2月”がいいよ。」と言うんです。その時点で、2月はまだ、半年も先でしたので、「いい物件がでたら、半年なんて待っていらんないよ。」と、返していました。でも、そう言っていた本人が、その”2月”に亡くなってしまい、倒れる前に交わした ”2月がいい”というのが母の最後に言葉になりました。自分の中では、”この店はあれか?うちのかあちゃんの形見か?”と、思えて、どうしても2月中に開けようと決めたんです。遺言ではないですけれど、そのおかんの最後の言葉を守らなきゃって。準備のスケジュール的にも26日が最短で開けられる日でしたので、2・26事件にもリンクさせて、いわゆる決起。意地でも26日にとにかく開ける、その後2日間は休んでまた準備し、3月1日から通常営業できるようにしました。なので、私の中では、オープンは3月1日ではなくて、母に捧げた2月26日なんです。」

 

女「私も父を亡くした時に、その直後からの手続きや式典法事などがあまりにも忙しくて、悲しむ時間を持てませんでしたが、その上に、他のお仕事と開店準備をされていたのですね…」

 

侍「年明けからは、開店準備と受けたセミナーやコンサルタントなどと母の死が一気に重なり、いつ倒れてもおかしくないギリギリの心身の状態で、過労死する人はこういう感じなんだろうかとか考えたりしました。今朝も実家へ行って、墓石に彫る文字を決めてきましたが、涙流す暇もなく、いろんなことが凝縮して、全部一度に襲い掛かってきます。でも一生懸命生きてるんだなという実感はすごいですね。もう必死で生きてます。」

 

生きてきた中で最も過酷な半年と、小池氏はこの時期を振り返ってしみじみと言う。退職、拡大したボランティア活動の長、母親の入院、扶養家族がいての無職、物件の難航、突然の契約、母の死、その後の法要等々、セミナーやボランティア、開店準備など、自分自身も家族も母親も先が見えない状態で、いくつも平行して目の前の事をこなし続けてきた。きっと想像以上であるとは思うが、連日次々とやることが迫ってきたのは、不安や悲しみの気持ちに向き合わずにすむために逆によかったのかとも思う。それでも意識が遠のいたり、動悸やめまいがしたりと確実に、心身の疲れが表出してきていた。もしこの状態で、自分の店をつくるという、輝かしい目標がなければ、どうなっていたのだろう。小池氏の母親は、物件が決まって引き渡されてから旅立たれたのだが、最後に交わした会話や、そのときの内容、開店の時期や店の場所の方位などへの暗示、ご自身が旅立つタイミングさえも全て含めて、姿がこの世になくなってからも、長年の夢をカタチにしようとしている息子をずっと見守り、応援していたのではないかと思う。無事に開店することができて、安堵されているのではないだろうか。

 

後編は、その”母の形見”という開店されたばかりの四ツ谷のお店と、イタリア伝統料理原理主義者とまで言われる、イタリア料理人小池教之氏の、コイケイズム、哲学に迫ります。

後半へ続く…

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